
明日は立春。もう春だから軽い話でもしよう。この前も友人と「日経新聞の
文化欄は、新聞の中でいちばん面白い」と話した。今朝は京都のカメラマン・
甲斐扶佐義さんの話。喫茶店をしながら町をぶらり歩いて撮った写真で
京都美術文化賞を受賞。しかし、結婚式で2度写っていないことがあったとか。
私も兄の結婚式で1枚も写っていない失態をしたことを思い出したのだが。
話は、30年ほど前のハワイ・ワイキキの砂浜でのこと。キャンディス・バーゲンと
瓜ふたつの女性を見かけた。急いでカメラにフィルムを入れて、砂浜の鳥を撮る
振りをして、肘をつき匍匐前進で近づく。横にはビヤ樽のような母親がいた。
何とかカタコトで話をして、写真もOKだったのだが、立ちポーズは嫌だという。
いよいよビヤ樽の母親が立ち上がり、彼女も後を追ったのだが。その姿には
唖然とした。上半身は完璧なキャンディス・バーゲン、下半身は母親と瓜ふたつ。
それでも、顔はキャンディス・バーゲンだから、日本に帰ってすぐ現像したのだが、
何も写っていない。これでは、ただのホラ話。残ったのは擦りむいた肘の痛みだけ。
篆刻は、シャッターのような「写=冩」。朝廟のウ冠と縁飾りのある靴・舃(せき・)。
履替えることから移、写になるが。ブログ300回目、こんな話でいいのだろうか。

昔の篆刻「遊心」を見たら側面に「祈母之平穏 一九八〇年十月」と彫ってあった。
私の父母は、横浜からこの家に移り住んだことがあって、その頃母が腸閉塞で
手術した前後と思われる。母が手術というのに「心、遊ばせよう」は異な感じだが。
吉田一子さんは、大正14年生まれの85歳。60歳を過ぎてから、大阪・富田林の
人権文化センターの識字学級で字を習いはじめた。ひらがながやっと書けるように
なった頃。銀行に娘さんに書いてもらった払戻し請求書を持って行ったが、数字が
ダブっていたとかで、書き直すよう言われた。字が書けないから代わりに書いてと
頼んだが書いてくれず、自分のお金が出せない。その悔しさで漢字も習いはじめた。
ある時は、駅で落書きを見て、びっくりして涙を流す。「なにかんがえてるんやろね
だいじな かわいい じ つこて ひとの わるぐち かいて」と、日記に書いた。
NHKのドキュメンタリー番組で、小学生の前で話をした時。いちばん好きな漢字は、
と聞かれた。実の母が2歳の時死んだから「母」と答えて、ホワイトボードに人前で
はじめて漢字を書くことになった。恐る恐る書いたその「母」は、とてもいい字だった。
私はそれを見ながら、誰かが、母という字は「女とふたつの乳」と教えてあげたら、
もっと早く覚えられただろうに、と思った。篆刻は「母」で、横座りする垂乳の女。

「もう5年。まだ5年。」 あの大震災から5年後、NHKの特番用のポスターに
書いた、私のコピー。人々の気持ちは、5年の時を整理しきれずに揺れていた。
15年目のきょうにしても、それは「もう」だし、「まだ」なのではないだろうか。
昨日のNHK「追跡!AtoZ」は、被災者の心の浮沈を復興曲線にして分析する
研究を紹介していた。公営住宅に優先的に入居できた高齢者より、自力で
住居を再建せざるを得なかった働き盛りの多くが二番底を経験し、いまだに
下降している人がいる。しかし、あることを機に一転、上昇をはじめた人もいる。
身体に障害を受けて、笑えない日々が続いたが、語りあえる仲間を見つけた。
会話の途絶えていた夫婦が話はじめた。震災の体験を伝える語り部になった。
手記を書き出した。そんな人たちの曲線は、上に伸びていく。その共通項は、
言葉なのだ。言葉が人を救う、という事実。しかし、その言葉は、単純ではない。
「もう15年」というには、あまりに遅い。「まだ15年」と思うには、かなり早い。
切ったら血がでる本当の言葉は、その間にある。そんな言葉だけが、伝わる。
篆刻は、「間」。門の中に肉を置いて祀(まつ)り、安静を祈願すること。本当に
人の心の肉となり骨となるような真の言葉は、我と他、彼と此、その間にある。

ここ数年は年賀状のスタイルを決めている。この2010年もそれに従って、
上には篆刻「陽」、真ん中に庭からの日の出の写真、その下に「陽は、昇る。
見えても、見えなくても。」という言葉を添えた。陽は、神殿の階段そばに置く
玉が放射すること。去年生まれたふたり目の孫「陽菜(ひな)」にちなんでも
いるのだが。この名が、2年連続で女の子の名前トップだというので驚いた。
私の母が、よく私の息子たちが大きくなったら「地球は、日本は、どうなるの?
心配だ、可哀想だ」と言っていたが。私もまた、この孫たちが大人になった時、
日本は、世界は、地球はどうなっているのかと、かなり本気で心配している。
いまさら言うまでもなく、日本の政治が漂流している。経済があえいでいる。
でも影の総理は選挙のことしか考えていない。cop15は、何も決められずに
終わった。戦争中の軍事超大国の総指揮官が、ノーベル平和賞だという。
世界が、薄暗い雲に包まれている。それでも、陽は昇っている、と思いたい。
春3月31日〜4月4日、いよいよ東京の豊島区立熊谷守一美術館3階の
ギャラリーで、篆刻の個展をやる。テーマは、「印のアート・いいことばだけ」。
せめて、小さくても、弱くても、光を放ちたい。いいことばを石に刻むことで。

このLINKにある『人生の芯・ヨガを通じた哲学日記』は、私の大学時代の友人
MK氏の素晴らしいブログなのだが。最新記事は、インドの3大哲学のうちの
「ヴェダーンタ哲学」。前回あまりにも難解だったので、もっと分かりやすくと頼み、
苦心の労作なのだが。「それでもすっと心に沁みてこないのは、私が日本人
だからではないか?」とコメントした直後に、クロネコメール便が東京から届いた。
京都の宇治に家族を残して、単身東京で頑張っている写真家・森善之さんが
編集責任の『JAPANGRAPH』という本。副題は「暮らしの中にある47の日本」。
滋賀01/47だから47冊を目指すのか。広告は、村田製作所と琵琶湖ホテルだけ。
森さんの写真・文のページを読んで、早速を電話した。案の定、仲間と自腹覚悟で
始めた挑戦。次号のために、いま同士がテント持参で岩手に行っているという。
でもね、だからね、すべての写真がじわじわじんじん沁みてくる。どの言葉もきんきん
響いてくる。森さん、こんなにいい文を書く人だったんだ、とうれしくなる。「経済の
情報にほんろうされる僕達の未来には、どんな暮らしを思い描くことができるのだろう。
その一つの道標が、湖のほとりの小さな町の日々の暮らしの中に、無造作に立て
かけられてあるように思えた。」なんて、しびれるよ。やっぱり日本人です、私は。

迫田司氏の『四万十日用百貨店』(羽島書店)によると、四万十では「車で
すれ違っても誰が運転していたかすぐ分かる」というが。本当なのだろうか。
市道はともかく県道ですれ違った車の運転者の顔は、私にはまず見えない。
三浦展氏の『ファスト風土化する日本』(洋泉社)は、恐ろしい本だった。
国や地方が市街地から郊外へと開発を進め、同時に道路網を整備した。
ジャスコ、マクドナルド、ユニクロなどが集積したパワーセンターが出現する。
そこの商品は、日本のどこでも買える、いわば顔のない商品ばかり。そして、
そこに家族は車で消費しに行く。家族は車に乗って国道を走るとき、すでに
匿名化している。名前のないグループが、顔のない商品を消費するのだ。
実は、さらに犯罪多発地帯と大型スーパーの関連にまで話が及ぶのだが。
奈良市北東部のここでも、酒、たばこ、最低限の食品と日用品の店が1軒だけ。
だから市内のスーパーや国道沿いの大型店に車で買出しに行くしか手がない。
25年前は、肉を置く店、鉄工所、造り酒屋、車の整備工場などがあったのだが。
子どもが学校帰りに、店や職人の作業場をのぞく。声をかける、働く姿を見る。
それは、もう出来ない。顔のない町で、心など育つ訳がない。篆刻は、「心」。

我が家には、薬師寺のお坊さん・大谷徹奘さんの日めくりカレンダーがある。
5日は、「なかなか 言えない ありがとう なかなか わからぬ おかげさま」
10年前のきょう、鈴鹿のバイクレースで亡くなった遊と私の間も、そうだった。
父親と男の子どもがいっしょに仕事をするのは、とても大変だったから・・・。
数日前、Sさんという方からメールをいただいた。遊が大学の頃、アルバイトで
ティッシュ配りをした英会話学校の方だった。私はうつ病が治って、中崎町の
Aというプロダクションで働き出したのだが。バイトをしたいなら私を手伝えと、
Macを覚えさせデザインをさせた。ちょうどその頃、Sさんも同じ中崎町の広告
代理店に転職して、ばったり遊と再会したという。いっしょに飯を食べ、電話で
話したりしたが、我々がハイエスト・ハイを立上げたのを知らせなかったらしい。
Sさんが再び遊のことを知ったのは、新聞の事故の記事。数週間前に生まれた
長男の名前に「遊」を考えていたが、名字との関係で断念したところだったという。
メールには「礼儀正しくて楽しくて名前のとおり本当に素敵な男の子でした」と
あった。私も、いま言おう、遊が私の子だったことに「ありがとう。おかげさま」と。
そして言おう、「遊のことをいまでも忘れない、すべての方に、ありがとう」と。

去年、北隣の家の裏山で樫を伐りはじめた。どこの家にもチェーンソーはあるから、
多少の太さなら自分で伐れるのだが、裏山で伸び放題になったのは、手に負えない。
専門の業者に頼んで手間賃なしで伐ってもらい、その樫は業者が持ち帰るのだが。
樫なら何でも、という訳にはいかない。中の白い白樫でなければ、商品価値が無い。
いまでも、白樫はクワなどの柄、カンナの台、クサビなどになる有用材なのだという。
隣の空き家にも樫が生い茂って、下の市道にまでせり出している。常緑で落葉は
少ないが、秋にドングリが落ちて、それを車が粉引きする。それが腐葉土になって、
雑草が生える。もちろん、見通しが悪く、暗い。三重県の持ち主に連絡して、業者に
伐ってもらった。離れの屋根の上に大きな空が見える。次は我が家のイチョウを
根元から伐ってもらった。仕事場の窓から、西の空が大きく見えるようになった。
草刈機を持つと、ふだん愛らしく思っていた草まで刈る。チェーンソーを持つと、
他の木まで伐りたくなる。武器が手にあると人格が変るのは事実に違いない。
篆書の「伐」は、人と武器である戈(ほこ)だが、戈が人の上部にまで入っている。
伐は人を斬ること、斬首であった。木を伐っておいて言うのもおこがましいが、
木を伐ることは自然を殺すこと。それが人を殺すことにならなければいいけれど。
※画像はフォトショップで色を塗っているときに、出たムラが面白かったので。

猫の肉球と爪で「点」という字を書いてみた。猫のテンテンは、白い体に点々と
濃い灰色があるからだが、きょうの夕方、私とカミサンが見守るなかで亡くなった。
15年ほど前、カミサンが犬の散歩で小さな紙袋を拾った。中に生まれたばかり、
目も明かない猫がいた。大きさは百円ライターほど。獣医にミルクをもらってきて
スポイトで飲ませた。目が開いた時、ミルクをやっていたのが私だったから、私を
親だと思っていた。数年前まで、私の耳を吸ったから、耳たぶがカサカサになった。
テンテンは、自分が猫だと思っていない、自分は特別だと思っているようで、他の
猫に馴染まなかったし、お客さんにもなつかなかった。毛が印泥に入るので
仕事場に猫は入れなかったが、テンテンは許した。奈良から逗子へ越した時も、
テンテンと犬のトノは連れていった。狭いマンション暮らしがストレスになったようで、
毛を歯でむしった。リードをつけて公園を散歩させたが、ダメだった。奈良に帰っても
直らず、舐めて肌が赤く見えるほどになった。老衰で体力が落ちてからは、それも
出来ず、死んだ時は元のきれいな毛並みでいたのが、せめてもの救いだった。
仏壇の前に置いて、カミサンと般若心経をあげ始めたが、ふたりとも出だしで
息を詰まらせてしまった。明日の朝、仕事場の窓から見える場所に埋める。

これを幸運と言っていいものかどうか。Kという会社の新聞広告が、ある広告賞で
部門の3位になった。5年ほど前に始めたシリーズで、すでに小さな賞も貰ったが、
それを他の新聞に転載してのもの。新聞社は同じ原稿の再掲載でも、掲載料は
しっかりもらっている。我々の制作費は、このご時世だから当初の1回分だけ。
東京の受賞式に出席したが、新人コピーライターの頃の先輩がその部門の審査員
だったり、パーティーでかつての広告仲間に会えたから、やはり幸運なのだろう。
話は篆刻のホームページに変わるが。IBMのホームページビルダーでつくった
『篆刻の楽篆堂:田中快旺』は、新作を作るたびに更新して、作品ギャラリーとして
働いてくれているのだが。篆刻で検索していただいても、なかなかたどりつけない。
何とかしなければと考えているところに、Yahooの関連会社から電話があった。
その提案を受けて、新しく立ち上げたのが『篆刻アートの楽篆堂』という
新HP。しかも、これがJWordの「篆刻」というキーワードを代表するサイトとして、
きょうから表示されはじめた。ネット世界に無数にある篆刻関係のサイトを代表
するなどおこがましいが、無数の提案相手の中から何かの偶然で私が電話を
受けたのは、運。これを文字通りの“LuckTenDo”にできるかは、もちろん私次第。